はつくにしらすめらみこと

初国知所之天皇

8mm オリジナル 全長版

監督:原將人

2011年2月5日(土)

ライブ演奏:原將人、テニスコーツ(さや、植野隆司)、宇波拓

2011年3月6日(日)

ライブ演奏:原將人、秋山徹次、ユタカワサキ、宇波拓

2011年4月3日(日)

ライブ演奏:原將人
(出演ミュージシャン変更については追って報告させていただきます)
各日
開場14:30 開演15:00
上映時間約7時間(途中休憩4回あり)
予約 2500円 当日 3000円 3回券 6000円
キッドアイラックアートホール(明大前)
http://kidailack.co.jp/
キッドアイラックアートホールでの予約受付

03-3322-5564
arthall@kidailack.co.jp

『初国知所之天皇』
幻の8ミリオリジナル全長版
復活・連続上映のお知らせ


●『初国知所之天皇』は、1973年、当時23歳だった原將人(正孝)によって発表された。8ミリ+16ミリの作品で、『古事記』と『日本書紀』をベースにした北海道から鹿児島まで旅する壮大なストーリであるとともに、神話的世界の国づくりが映画づくりに重なり、国家と個人が統合されるという現代芸術最先端の構造を持っていた。そして、7時間を超える作品の上映時間の長さが、観る人々にとっても、時代とそこに生きる個(自己)を考えるうえで必要不可欠な時間であるとして、全共闘運動崩壊後の若者たちに絶大な人気を博した。朝日、読売、東京の各紙で大きく取り上げられ、特に読売新聞では新進気鋭の詩人吉増剛造氏が「映像が旅を始めた」と絶賛した。上映は渋谷のポーリエフォルト(後にアピアに会場を移す)という小さなスペースで週末毎に行われるだけだったが、1年間で1万人以上を動員した。その後、16ミリの短縮バージョンが作られ全国各地のホールなどで上映され、8ミリオリジナルバージョンも原自身のライブ演奏によって全国のライブハウスで77年まで上映が続いた。
●しかし、8ミリオリジナルは、78年の原の自宅の火災によりダメージを受け34年間眠り続けていて、8ミリオリジナルを体験したことのない若い世代から、その再映が熱望されていた。それが、今回、修復作業を受け、オリジナル8ミリ+16ミリ(DVD)の形態で復活することになったのである。
●また、今回特筆すべきことはライブの音楽演奏である。原は8ミリ+16ミリの楽曲(サントラが日本フォノグラムから発売された)に加えて、16ミリバージョンでも新たに2曲新曲を加えているが、それらすべてが上記のミュージシャンのサポートを受けライブ演奏されることになるのだ。オリジナル以来38年の時の流れを通底する音楽空間にゆったりと浸ってほしい。

『初国知所之天皇』が甦る

原將人


 1990年代の初頭の頃、私は来日したジョナス・メカスさんに初めてお目に掛かり新宿のナジャで指圧をして差し上げた。指圧が終わってからメカスさんが言った。「原クン、お礼にいいことを教へてあげやう。映画はアルタミラとラスコーの洞窟壁画から始まったんだよ」
 燃え盛る焚き火の炎に、けふの感謝と明日の狩猟の願ひと祈りを受けて、うたとともに、揺れ動いてゐた、牛や手の洞窟壁画こそ映画の始まりだったのだ。20代で8ミリに出会ひ『初国知所之天皇』のライブ上映により、映画の始源を追ひ求めてきた私にとって、その言葉はまさに啓示だった。

 現在は無い。有るのは過去と未来ばかりで、現在はその接点に過ぎないと言った哲学者がゐたが、ライブとは未来を過去にしていくその接点の軌跡だ。映画の撮影は未来を過去にしてゆく作業で、いはば記憶づくりだ。そして、上映は過去を未来に差し戻し、映画館といふ場所での集合的な記憶にしてゆく過程だ。20世紀に産業として成立した映画にはそれができなかったが、映画にはライブといふ形式こそ理想なのだ。願ひと祈りの場所の記憶の集積。映画は想起すべき過去を伴ってこそ、語り継がれる記憶となる。私がライブ上映にこだはる理由はそこにある。
 しかし、1973年にライブ映画として一世を風靡した『初国知所之天皇』は、30数年の長きにわたってそれができなかった。今回それが復活するいきさつはかくの如きものである。

 30数年前私は火事に遭った。分厚いプラスチックの大きなリールに巻かれた『初国知所之天皇』のオリジナルの8ミリフィルムは、変型したリールとケースの殻に包まれて一塊の異物と化してゐた。幸いラボに置かれた、ブローアップした16ミリの原版は無事だったので、その後の上映はすべて16ミリ版でまかなってきたが、私は異物と化していた8ミリの塊を自分の分身の遺骨のやうにして、引っ越す度にも捨てずに持ち歩いてきた。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし」と、無常感に浸るには、私は余りにも若過ぎたのだった。だが、皮肉なことに、2006年の富士フィルムの8ミリ製造中止のニュースによって、やうやく、この世の無常を思ひ知らされた。
 私は意を決して一塊の異物となった『初国知所之天皇』のオリジナルフィルムをハンマーで割ってみた。なんと異物と化してゐたのはリールとケースばかりで、フィルムそのものは無事だった。巻頭部分の変形こそ痛々しかったが、それを過ぎるとほぼ30数年前と変はらぬ状態でプラスチックの殻に守られてゐたのだった。私はそのハイライト部分を『初国の旅』と名付け、それを中心にして3面マルチを組み『マテリアル&メモリーズ』を編んだが、3年間のライブを繰り返すうちに『マテリアル&メモリーズ』は増殖し、『初国の旅』が無くても成立するやうになった。
 そして、キッドアイラックホールといふ1970年代の記憶を共有するのに最適な場所も見つかった。そんな折も折、宇波拓、テニスコーツを中心にした音楽サポートの申し出を受け、40年振りに『初国知所之天皇』のライブ上映が復活することになった。

 アルタミラロとラスコーから始まった映画の記憶を甦らせたいと心から願ひ祈るばかりである。

「君は原將人を観たか?」

四方田犬彦(明治学院大学教授/映画史)


一九七〇年代のはじめ、大島渚は白地に黒の「日の丸」をスクリーンに登場させ、日本という観念に強烈な肘鉄をくらわせようとした。原將人は逆に高千穂の峯で風に靡(なび)く「日の丸」を撮り、あえて美しいと独白した。「初国知所之天皇」は、日本という神話的映像に直接否(ノン)をつきつけるのではなく、その外延を周到に廻り、観念をなぞらえながら解体へと導いてゆく、興味深い試みである。日本映画における最初の脱構築の試みといってもいい。
ランボーを引用することから開始された原將人の映画的歩みは、今ランボーのように回帰しようとしている。君は原將人を観たか?
(1993年「初国知所之天皇」16ミリマルチバージョンのポスターより)

一つの時、一つの生、一つの映画
   わたしはかく『初国知所之天皇』を観た

高祖岩三郎(批評家)


 一九七〇年代初頭、わたしは『初国知所之天皇』を観た。先端的な政治、文化、映画に興味をいだく若者たちにとって、原監督自身によるこのライブ上映は、決定的な「出来事」であった。以後この作品は個人映画というジャンルの先駆とされている。だがこの定義はわたしには物足りない。ここでは後続作品にはない特異性(シンギュラリティー)が出来事として炸裂していた。それは誰よりもまず監督自身にとって、そして観客たちにとっても、唯一的体験であった。それはどういうことか?
 当時68年の余波、その収斂における集合的発見として、世界資本主義の開発によって変容し続ける「風景」との邂逅が、ことに映像実践を通して主題化されていた。それは同時に、海の向こうフランスのシチュアショニストによる「スペクタクル社会」の問題化とも呼応しつつ、今や完成されてしまった映像主導の資本主義社会における万人の生の様態を先取りしていた。今やわれわれ皆が、それぞれの映像の「作者」として「主人公」として「観客」として、世界内在性を生き闘争している。『初国•••』という出来事は、来るべきこの時代の本質をビデオとディジタル映像到来のはるか以前に具現化していた。
しかしまず何よりも『初国•••』以上に美しい映画をわたしは知らない。その数年前に企画された日本国家国生みの神話の謎を解きほぐす主題映画の失敗を跡づけながら、日本列島をほぼ北から南へとヒッチハイクで南下する旅には、監督自身の実人生と映画作家としての盛衰がまるごと賭けられていた。旅する身体は、そこで去来する風景との邂逅の中で、失敗した映画の主題性と日本市民社会に生きる己の主体性の諸契機を問いかけ、問いかけ直し、それらを解体していった。そうした問いの連鎖は、撮り/視る身体の時間を意識化した独自のスローモーション映像、および哀しくも勇壮な諸テーマソングと一体化し、映画自体のミュージカルを言祝いでいた。  そこでは「日本」は、ひたすら変容させられていく「風景=映像」として、または「生死=光陰」の出来事として、特殊日本文化論とは断ち切れた世界性を獲得していった。それは同時に日本列島を、閉域としての「島国」から、いわばエデゥアール•グリッサンが言う「群島」に変容させていった。その過程において初めて、映画の「作者=主人公」という二重性を引き受けた監督の存在が、新たな世界性を獲得していく「生の形式」として、来るべき映像の時代を体現することとなった。そこには映画への限りない愛と共に、この上なく暴力的な社会変容への悲劇的「距離=認識」が重ねられていた。
 もしこれを芸術と呼ぶならば、概念の獲得、形式の錬磨、スタイルの確立として次第に形成されてゆくべきそれとは、明らかに袂を分かっていた。それは監督自身が、幾度となく謳歌したランボーの『地獄の季節』のように、ある決定的な一つの「出来事」を為してしまった後、その後の展開が、作家の生において、ほとんど不可能(下線部傍点)になってしまうような芸術、つまり唯一の「作品=出来事」であった。
 『初国•••』における問いかけの強度は、極私的であることが、「共通なるもの(コモン)」の契機へと繋がっていく逆転的回路を開示している。マックス•シュティルナー→カール•マルクスの回路である。「全ての概念(コンセプト)を捨てる」過程において、「わたしは何も持ち合わせていない」、だからこそ「わたしは全てを持っている」と叛転するその内省は、まさに全ての抽象的な概念——神、人間、国家、道徳、正義、労働、所有、平等、自由、革命——を捨て去り、「あらゆるものはわたしにとって無である」と言い放ったシュティルナーと、それを批判的に継承することによって初めて唯物論的世界認識を確立したマルクスの回路から垣間見える「特異性=普遍性」、そして「共産化(コミュニゼーション)」を彷彿とさせはしないだろうか。
 原監督にとっての映画とは、この意味で、政治/社会的問題に対し個人的生活を主題化する「個人映画」ではない。むしろかく範疇化される表現論の成立以前の地平において、遍在する一回限りの(下線部傍点)風景との邂逅という出来事に、カメラを手にして己の存在と生を賭け続けることであり、どちらの主題化も拒絶する「映画=運動」の一つの極限であった。
 静画/動画を問わず、万人が映像によって主体形成する時代、「映像の時代」が到来した。そこでは万人が自らの映像作品の「作者=主人公=観客」となった。かかる「映画=生」は、家族の記録から、活動の記録(アクティビスト•ビデオ)まで、世界中で幅広く実践されている。だがこの状況は『初国•••』という出来事が遍在し、無効になったことを意味しない。むしろ今になってこそ、時代の本質とそこでの実践の可能性を示唆し続けている。それは己の生を賭けた世界とのラディカルな邂逅と、己の主体性を解体するまで問いつめる内省の合体としての「映画」である。
 わたしはかく『初国知所之天皇』を観た。そして今も観続けているのである。

解題 『初国知所之天皇』


1973年 8ミリ+16ミリ 約8時間
1975年 16ミリ 4時間/1993年 16ミリ2面マルチ 1時間50分

 高校時代、ゴダールと並んで、リアルタイムで作品を追いかけていた憧れの大島渚監督に「映画で遺書を残して死んだ男の物語」という主題の『東京戦争戦後秘話』のシナリオを頼まれた時、原は、「それはあくまでも不在証明としての映画でなければならない」と思った。「死ぬ理由を説明してしまっては、大島自身も拒否していた古典的な劇作法に戻ることになる」と。原が大島映画のなかで一番好きだった『帰って来たヨッパライ』を思い返しながら、大島の世界をその先まで進めようと考えたのが、どこにでもあるありふれた風景だけが並んだ遺書だった。その実存的な風景の世界を、原は佐々木守の強力なサポートを受け、一週間余りで書き上げた。しかし、出来上がった作品のなかの遺書としての風景は、「実存を取り巻く世界としての風景ではなく、古典的な光景に過ぎなかったのでちょっとがっかりした」と原は言う。その後、原はその時イメージした不在証明としての風景が如何にして撮れるかと、『初国知所之命(はつくにしらすめらみこと)』を構想していくこととなる。
 ジェームス・ジョイスがオデッセイをベースに書いた「ユリシーズ」のような方法で、「古事記」と「日本書紀」を手がかりに、神武あるいは崇神天皇をめぐる日本国家の起源をテーマにした『初国知所之命』という16ミリ映画を撮ろうとして挫折した原は、その後、オトシマエをつけるため、単身8ミリを手にしてその挫折した映画を廻る旅をするのだが、その旅が、映画の起源を廻る旅に変貌していくことに気付く。そして、それが自分の撮りたい映画であることを自覚する。そして、北海道から大和、出雲、高千穂と南下し、旅の果てに、鹿児島で、映画を撮って自殺した16歳の少女の遺書の映画に出会うのだが・・・。(何と奇妙な符合!まるでその直前、原がシナリオを書いた『東京戦争戦後秘話』のようではないか!)
 『初国知所之天皇』は、そのプロセスを日記風に辿ったロードムービーである。
 「脱構築して、天皇が関係なくなっちゃったんで、天皇という文字もこだわりなく使えるようになったんですよ」と、語る原は、何故、ロードームービーだったのか、続けて、こう語る。
 「ちょっと気恥ずかしくて大きい声では言えないんですけど、『イージーライダー』のミーハー的な大フアンだったんです。ビートルズ、ストーンズ、ドアーズ、グレイトフルデッド・・・ロックバンドが大好きだったぼくは、これぞ、ピーター・フォンダとデニス・ホッパーによる映画バンドの映画だと思いました。続編を作るかなと思っていたら、ビートルズのように解散してしまって、その後、ピーター・フォンダがソロアルバムのような『さすらいのカーボーイ』を作るでしょ。あれも大好きですね」
 この作品のオリジナルバージョンは、16ミリで撮り始めながらも中断していた原が、手軽な8ミリ(シングル8)に遭遇することによって完成したのだった。そのため、1973年のオリジナルバージョンでは、原が8ミリと16ミリをシークエンス毎に切り替えて映写した。しかも、16ミリの引用部分はノーマルスピードであったが、8ミリの全編が映写機によるスローモーションで上映された。上映時間約8時間というのも、そのためである。
 音は、16ミリと8ミリの併用ということもあったが、そもそも映写機による秒4コマのスローモーション上映では、音の同期は不可能だったので、オープンリールに収められ、映像のタイミングで、原自身、ポン出ししていた。いわばライブ上映である。ここからライブ映画という、原の長い道のりが始まる。
 上映時間約8時間であったため、夕方からの上映では終電に間に合わせるため、微妙に可変速の8ミリ映写機のスピードを上げ、オールナイトでは、気持ち良く寝入っている人があれば、あまり先に進まないようスピードを落として目覚めるのを待つこともあったと言う。渋谷の喫茶店の上の小さなスペースでの週末だけの上映ではあったが、各紙で絶賛されたこともあって、1年以上のロングランで1万人以上動員した。これは、当時、インディーズの映画としては異例の数字である。
 その後、8ミリ部分は16ミリにブローアップされ、4時間5分の音も同期した16ミリ版が誕生した。そして、十数年後、そのバージョンは2台の映写機による1時間45分の2面マルチバージョンに変貌した。1978年、オリジナルの8ミリは火事にあったが、現在、30年振りに修復され『マテリアル&メモリーズ』の『初国の旅』として3面マルチライブ映画で復活した。
(2009年・『マテリアル&メモリーズ』パンフレットより)


原 將人・プロフィール
映画監督/映画作家(撮影・編集・音楽)

 本名・原正孝。1950年。東京目黒に生まれる。漆器商を営む父と伯父のもと、ラジオ、SPレコード、テレビに囲まれた環境で育つ。また、父方の祖母の弟(大叔父)に松竹蒲田撮影所出身の映画監督・西尾佳雄がおり、幼少の頃から度々撮影現場を見学。近所の映画館で、ゴジラシリーズや「笛吹童子」を始めとする東映・新諸国物語シリーズなどに親しむ。’50年代後半、写真マニアの伯父が8ミリを始めた事により、小学校低学年で、二眼レフカメラと現像、引き伸ばし機一式を伯父より譲り受け、写真技術を覚える。現像液の中で印画紙に像が浮かび上がる瞬間が作り手としての最初の映画体験だったという。
 麻布学園高校在学中に製作した16ミリ映画『おかしさに彩られた悲しみのバラード』(’68)で第1回東京フィルムアートフェスティバルのグランプリ&ATG賞を受賞。インディーズ映画の先駆となる。
 ’70年。『自己表出史・早川義夫編』で日本のロックの先駆者早川義夫を取材、作曲法を学ぶ。また、同年、大島渚監督より依頼を受け、『東京戦争戦後秘話』の脚本・予告編を担当。
 ’73年。古事記をモチーフに国家の起源を巡るロードムービー『初国知所天皇』(16ミリ&8ミリ)の製作ライブ上映を経て、秒4コマ映写という特殊な映写方法による視覚的音楽としての映画の起源に辿り着く。と同時に自ら作曲を始め、その後のすべての自作の音楽は自ら手がける。
 ’78年、膨大なフィルムが置かれていた仕事場が火事に遭ったのをきっかけに、ビデオに移行。次いで、テレビ番組、教育映画などにフィールドを移し、十余年の間に、百本を超える映像を演出。
 ’93年、インディーズ映画に復帰。俳句ムービー『百代の過客』(8ミリ&ビデオ)を発表。その後、同作品は、’95年の山形国際ドキュメンタリー映画際のコンペ参加作品ともなり、’90年代の私的ドキュメンタリーのムーブメントの先駆となる。
 ’97年、初の35ミリ劇場用映画『20世紀ノスタルジア』(大映配給・広末涼子のデビュー作)で日本映画監督協会新人賞を受賞。
 2002年『MI・TA・RI!』(8ミリ&ビデオによるマルチスコープ)を発表。パートナーのマオリとともにライブ上映を行い、フランクフルト国際映画祭で観客賞を受賞。
 ’08年、新作の劇場用映画『あなたにゐてほしい』(フィルム&HD・ハイブリッド35ミリ/未公開/2011年公開)を完成。
 ’09年、火事に遭った映像を復元して組み込んだ、秒4コマ映写、8ミリ3面マルチの前人未到のライブ映画『マテリアル&メモリーズ』に行き着く。また、同時にビデオもまた映画の身体性とリズムを取り戻すべきだと考え、映像短歌『万葉律』を提唱。