解題 『初国知所之天皇』
1973年 8ミリ+16ミリ 約8時間
1975年 16ミリ 4時間/1993年 16ミリ2面マルチ 1時間50分
高校時代、ゴダールと並んで、リアルタイムで作品を追いかけていた憧れの大島渚監督に「映画で遺書を残して死んだ男の物語」という主題の『東京戦争戦後秘話』のシナリオを頼まれた時、原は、「それはあくまでも不在証明としての映画でなければならない」と思った。「死ぬ理由を説明してしまっては、大島自身も拒否していた古典的な劇作法に戻ることになる」と。原が大島映画のなかで一番好きだった『帰って来たヨッパライ』を思い返しながら、大島の世界をその先まで進めようと考えたのが、どこにでもあるありふれた風景だけが並んだ遺書だった。その実存的な風景の世界を、原は佐々木守の強力なサポートを受け、一週間余りで書き上げた。しかし、出来上がった作品のなかの遺書としての風景は、「実存を取り巻く世界としての風景ではなく、古典的な光景に過ぎなかったのでちょっとがっかりした」と原は言う。その後、原はその時イメージした不在証明としての風景が如何にして撮れるかと、『初国知所之命(はつくにしらすめらみこと)』を構想していくこととなる。
ジェームス・ジョイスがオデッセイをベースに書いた「ユリシーズ」のような方法で、「古事記」と「日本書紀」を手がかりに、神武あるいは崇神天皇をめぐる日本国家の起源をテーマにした『初国知所之命』という16ミリ映画を撮ろうとして挫折した原は、その後、オトシマエをつけるため、単身8ミリを手にしてその挫折した映画を廻る旅をするのだが、その旅が、映画の起源を廻る旅に変貌していくことに気付く。そして、それが自分の撮りたい映画であることを自覚する。そして、北海道から大和、出雲、高千穂と南下し、旅の果てに、鹿児島で、映画を撮って自殺した16歳の少女の遺書の映画に出会うのだが・・・。(何と奇妙な符合!まるでその直前、原がシナリオを書いた『東京戦争戦後秘話』のようではないか!)
『初国知所之天皇』は、そのプロセスを日記風に辿ったロードムービーである。
「脱構築して、天皇が関係なくなっちゃったんで、天皇という文字もこだわりなく使えるようになったんですよ」と、語る原は、何故、ロードームービーだったのか、続けて、こう語る。
「ちょっと気恥ずかしくて大きい声では言えないんですけど、『イージーライダー』のミーハー的な大フアンだったんです。ビートルズ、ストーンズ、ドアーズ、グレイトフルデッド・・・ロックバンドが大好きだったぼくは、これぞ、ピーター・フォンダとデニス・ホッパーによる映画バンドの映画だと思いました。続編を作るかなと思っていたら、ビートルズのように解散してしまって、その後、ピーター・フォンダがソロアルバムのような『さすらいのカーボーイ』を作るでしょ。あれも大好きですね」
この作品のオリジナルバージョンは、16ミリで撮り始めながらも中断していた原が、手軽な8ミリ(シングル8)に遭遇することによって完成したのだった。そのため、1973年のオリジナルバージョンでは、原が8ミリと16ミリをシークエンス毎に切り替えて映写した。しかも、16ミリの引用部分はノーマルスピードであったが、8ミリの全編が映写機によるスローモーションで上映された。上映時間約8時間というのも、そのためである。
音は、16ミリと8ミリの併用ということもあったが、そもそも映写機による秒4コマのスローモーション上映では、音の同期は不可能だったので、オープンリールに収められ、映像のタイミングで、原自身、ポン出ししていた。いわばライブ上映である。ここからライブ映画という、原の長い道のりが始まる。
上映時間約8時間であったため、夕方からの上映では終電に間に合わせるため、微妙に可変速の8ミリ映写機のスピードを上げ、オールナイトでは、気持ち良く寝入っている人があれば、あまり先に進まないようスピードを落として目覚めるのを待つこともあったと言う。渋谷の喫茶店の上の小さなスペースでの週末だけの上映ではあったが、各紙で絶賛されたこともあって、1年以上のロングランで1万人以上動員した。これは、当時、インディーズの映画としては異例の数字である。
その後、8ミリ部分は16ミリにブローアップされ、4時間5分の音も同期した16ミリ版が誕生した。そして、十数年後、そのバージョンは2台の映写機による1時間45分の2面マルチバージョンに変貌した。1978年、オリジナルの8ミリは火事にあったが、現在、30年振りに修復され『マテリアル&メモリーズ』の『初国の旅』として3面マルチライブ映画で復活した。
(2009年・『マテリアル&メモリーズ』パンフレットより)
原 將人・プロフィール
映画監督/映画作家(撮影・編集・音楽)
本名・原正孝。1950年。東京目黒に生まれる。漆器商を営む父と伯父のもと、ラジオ、SPレコード、テレビに囲まれた環境で育つ。また、父方の祖母の弟(大叔父)に松竹蒲田撮影所出身の映画監督・西尾佳雄がおり、幼少の頃から度々撮影現場を見学。近所の映画館で、ゴジラシリーズや「笛吹童子」を始めとする東映・新諸国物語シリーズなどに親しむ。’50年代後半、写真マニアの伯父が8ミリを始めた事により、小学校低学年で、二眼レフカメラと現像、引き伸ばし機一式を伯父より譲り受け、写真技術を覚える。現像液の中で印画紙に像が浮かび上がる瞬間が作り手としての最初の映画体験だったという。
麻布学園高校在学中に製作した16ミリ映画『おかしさに彩られた悲しみのバラード』(’68)で第1回東京フィルムアートフェスティバルのグランプリ&ATG賞を受賞。インディーズ映画の先駆となる。
’70年。『自己表出史・早川義夫編』で日本のロックの先駆者早川義夫を取材、作曲法を学ぶ。また、同年、大島渚監督より依頼を受け、『東京戦争戦後秘話』の脚本・予告編を担当。
’73年。古事記をモチーフに国家の起源を巡るロードムービー『初国知所天皇』(16ミリ&8ミリ)の製作ライブ上映を経て、秒4コマ映写という特殊な映写方法による視覚的音楽としての映画の起源に辿り着く。と同時に自ら作曲を始め、その後のすべての自作の音楽は自ら手がける。
’78年、膨大なフィルムが置かれていた仕事場が火事に遭ったのをきっかけに、ビデオに移行。次いで、テレビ番組、教育映画などにフィールドを移し、十余年の間に、百本を超える映像を演出。
’93年、インディーズ映画に復帰。俳句ムービー『百代の過客』(8ミリ&ビデオ)を発表。その後、同作品は、’95年の山形国際ドキュメンタリー映画際のコンペ参加作品ともなり、’90年代の私的ドキュメンタリーのムーブメントの先駆となる。
’97年、初の35ミリ劇場用映画『20世紀ノスタルジア』(大映配給・広末涼子のデビュー作)で日本映画監督協会新人賞を受賞。
2002年『MI・TA・RI!』(8ミリ&ビデオによるマルチスコープ)を発表。パートナーのマオリとともにライブ上映を行い、フランクフルト国際映画祭で観客賞を受賞。
’08年、新作の劇場用映画『あなたにゐてほしい』(フィルム&HD・ハイブリッド35ミリ/未公開/2011年公開)を完成。
’09年、火事に遭った映像を復元して組み込んだ、秒4コマ映写、8ミリ3面マルチの前人未到のライブ映画『マテリアル&メモリーズ』に行き着く。また、同時にビデオもまた映画の身体性とリズムを取り戻すべきだと考え、映像短歌『万葉律』を提唱。